はっきり申し上げるならば、もう「沖縄」や「辺野古」を語る言葉を持ち得ておらず、何なら最初から持ち得ていないわけです。わたしは最初の最初から、抗議者のひとりとしてではなく、ただ言葉を持ち得ないものとして「いま・ここ」に来ており、「いま・ここ」の自分に密かに忍び寄ることでしか、言葉が生まれない。それはつまり、幼児のような自分を見つめることに過ぎず、独りよがりになりそうにもなる。なんてこった。だが転換点もある。自分の言葉なるものを所有したいという欲望から離れた瞬間、そう、わたしの言葉ではない、という地点からであれば、言葉が溢れ出てくる。これはなんなのか。