歳重ね

歳を重ねて何がわかるようになったのだろうかと、最近問い直してばかりである。28歳まで、あと1ヶ月を切ってしまった。なんとか眠りにつく時間を遅らせられる日を持とうとしている。明日は、こちらからお願いした打ち合わせがあるけれど、打ち合わせで語るための言葉をていねいに磨くのではなく、そうではないところばかりを考えてしまう。

 

信頼関係や距離感の築き方が、ひとによって異なること。loveとattachment、愛と愛着との関係が、依存と自立・自律のバランスとが、ひとによって違うこと。違うことが「当たり前」であり、目の前のこの現在は一瞬でもあるのだから、そこからスタートしましょうと言い聞かせながらも、何かを言えずに黙ってしまったり、言えなかった分を後からぶつけてしまったりしてしまうことが時折ある。わたしがそうさせてしまうこともある。総じて後悔とか失敗とかとして振り返ることが多いと思いつつも、その都度そうせざるをえなかったとも考えたりもする。なまものだ。とはいえ、ひとの近くや遠くでそういうことを繰り返しながら、何がわかったのかと言われると、甚だ訝しい。

 

わたしやあなたのなかの構造、集団、個人、みたいなものを、わざわざ主題にせずとも、会話の中でうまれることがある。そういう会話は少しずつでも、できたほうがいい。大学に入ってからかなと思ったりした。大学に入っての1.2年は、今よりもずっと、信頼関係や距離感の気づき方も、愛と愛着との関係も、依存と自立・自律のバランスも、きっと不明瞭で解像度が低かった気がする。もちろんそれは経済的な理由とか、学生という階級的なものによって、目がくもっていたのだとも思うけれど。いまもそのままなのかも。

 

わたしの本質をそのまま差し出す、みたいなことが、もうできなくなってくるのかなと思いつつある。差し出すことはあっても、本質そのままではなくなってしまっている。わからないけど。青春が消えるような空気感に鬱積したまま、わたしは多分、28歳を迎える。死に切ることも生き切ることもできないような、欲望と無気力とに揺られたままの、歳の重ね方になってしまうことを、黙って待っていてもいいのかとなやんでいる。

 

自分的には、絶えず侵食してくるホモソーシャルなかんじを、雑巾を絞るかのように、なんとか除きたい、ということの繰り返し。まあ高校生から10年ぐらい経ってもブログに文字を書くことは変わらないですね、はは。